昭和天皇の全国巡幸《お言葉》①

「何年つとめているのか、住宅や生活に不便はないか」
(昭和21年2月19日)

昭和天皇が全国巡幸を始めるにあたり、庶民第一号として声をかけたのが昭和電工の前場圧縮機係長であった。
その際の第一声である。昭和天皇自身が一般国民に親しく質問するのは戦前ではほとんどありえないことであった。

「寒くはないか」(昭和21年2月20日)
神奈川巡幸の際に昭和天皇は、鴨居擁援護所にお立ち寄りになり引揚者の子どもをおなぐさめになった。

「これでいいのだ。もうこういう時代だ」
(昭和21年2月20日)

神奈川巡幸から還御された昭和天皇は、髪の乱れを気にされた皇后陛下に対してこうお答えになった。
髪が乱れたのは、巡幸の際に昭和天皇が何度もお帽子をとられて会釈されたからある。

「あそう、戦争中はまことにご苦労だった」
(昭和21年2月20日)

昭和天皇は、神奈川巡幸の際、先日ナウル島から引き揚げてばかりの松沢元海軍大尉に対し労いのお言葉をかけられた。

「お家はどこ。焼かれたの」(昭和21年3月1日)
東京巡幸の際に、昭和天皇は、都立第四高等女学校にお立ち寄りになり、職員生徒たちを労われた。

「病気の状況はどうか、苦しいだろうね、痛むか、夜は眠れるか」(昭和21年3月25日)
群馬巡幸の際に、昭和天皇は国立高崎病院にお立ち寄りになり、上半身を起こそうとした重病患者を押しとどめられこうおなぐさめになった。

「朝から晩までの看護で随分つかれるだろうね。体に十分注意して看護につとめるように」(昭和21年3月25日)
同じく国立高崎病院で看護婦の労苦をおなぐさめになった。

「大丈夫か」(昭和21年3月25日)
群馬巡幸の際に昭和天皇は、御料車から降車されようとした。運転手が先に降りるためにドアを開けたところその取手が最敬礼している大澤農業会長の眉間に当たり出血した。
驚いた昭和天皇は思わずこうおっしゃって侍医をお呼びになった。

「あ、危ないよ」(昭和21年3月25日)
群馬巡幸の際に昭和天皇は前橋の戦災地を御料車から降りられてお歩きになった。群衆に押され一人の子どもが転んだ。
その時に昭和天皇は咄嗟にお声をかけられた。

「とにかく、大変だろうけど頑張ってください」(昭和21年3月28日)
埼玉巡幸の際に昭和天皇は、麦畑で農作業をする二人の農婦にお声をかけられた。
二人の農婦は何を聞かれても答えはならないと事前に注意されていたという。

「大漁だね」(昭和21年6月7日)
千葉巡幸の際に銚子港の岸壁にお立ちになった昭和天皇は、漁から帰ってきたばかりの船に向かって呼びかけられた。
漁師が「こんなに捕れました」と魚を担ぎあげると、昭和天皇は間髪入れずこうおっしゃって漁師を労われた。

「かわいそうに。銚子の人はどんなに苦しんだろう」(昭和21年6月6日)
千葉巡幸に向かう御召列車の中で入江侍従から銚子の戦災状況について聞いた昭和天皇はこうおっしゃって悲しまれた。


「戦災の国民を考えれば私は平気だ。十日間くらい風呂に入らなくてもかまわない」(昭和21年6月6日)
千葉巡幸の際、御宿泊に適当な施設がなかったために、御召列車を貨車引き込み線の「新生駅」に停車させて御宿泊所とした。
当時の御召列車には宿泊設備はおろか風呂もついていなかった。それを気にした側近に対して昭和天皇はこうおっしゃったのである。
ただ昭和天皇はもともと入浴がお好きではなかったと言われている。

「よく働くね、しっかりやってくれ。肥料が沢山できれば、食糧も沢山できるのだからね」
(昭和21年6月18日)

静岡巡幸の際に昭和天皇は日本軽金属清水工場をご視察になり、従業員をこう激励された。

「お茶を作るのは食糧を作るのと同様だ。少しでも増産するように。静岡は茶の名所だから期待している」(昭和21年6月18日)
静岡巡幸の際に昭和天皇は丸三製茶再製工場をご視察されこう激励された。

「それは気の毒だったね。お家の者は全部無事」(昭和21年11月18日)
茨城巡幸の際に昭和天皇は、八千人の児童の奉迎をお受けになり、親しく戦災児童に戦災について状況をご質問された。

「崩れたね」(昭和21年10月下旬)
愛知巡幸の際に、歓迎の人垣が押されて崩れたのをご覧になり、昭和天皇はその熱狂ぶりを非常に喜ばれたという。

「このお芋は、ここでとれましたか」(昭和21年10月23日)
愛知巡幸の際に昭和天皇は赤池集落にお立ち寄りになり、掘り出されたサツマイモの前にしてこう尋ねられた。

「これが戦災者、引き揚げ者たちの子どもですか」(昭和21年10月25日)
岐阜巡幸の際に昭和天皇は引揚者の子どもための厚生寮をご訪問され、園長にこうお尋ねになり、一人の子どもの頭を優しくなでられた。

「地方へは今後も続けて行きたいと思っている。ことに戦災者や引揚者、遺族は戦争の犠牲者で、一番気の毒に思っているので、できるだけ激励したいと思う。
しかし、これらの人々が元気に働いてくれるのを見て嬉しい」(昭和22年5月1日)

新憲法発布の際の記者会見で述べられたお言葉。

「明るい気持ちでしっかりやろうね」(昭和22年6月5日)
大阪巡幸の際に昭和天皇は、戦災で苦しむ人のための施設である博愛社をご訪問され、戦争未亡人をこう激励された。

「熱烈な歓迎を受けて、誠にうれしかったが、ケガ人が出はしないかと心配だった。あまり一ヶ所に混雑しない方が皆によく会えてよいと思う」(昭和22年6月)
記者会見の席上でのお言葉。

「君はいけるだろう、飲んでごらん」(昭和22年6月12日)
 兵庫巡幸の際、灘の酒造会社をご視察された際に、利き酒をするように勧められた昭和天皇は隣にいた松平宮内府長官にそれを譲ろうとされた。

「この夏は東北を廻らねばならぬ」(昭和22年夏)
大阪、和歌山、兵庫巡幸を終えた昭和天皇は、酷暑が去ってから東北巡幸を行うように進言した側近の言葉を斥けられた。

「国民はみな汗を流して働いている。自分のからだは心配に及ばない」(昭和22年夏)
大阪、和歌山、兵庫巡幸を終えた昭和天皇は、体調を心配して酷暑が去ってから東北巡幸を行うように進言した側近の言葉を斥けられた。

「地方の人達にはなるべく自由に迎えるように、学童たちをどうしてもならばせるときは日陰をえらぶように」(昭和22年夏)
東北巡幸を前に、酷暑による国民の労苦を思われた昭和天皇のお言葉は各地方官庁に伝えられた。

「アメリカは勝ったんだし、金持ちなんだから、いい物を着たって当たり前だが、日本は敗けて、 今みんな着る物も無くてこまっているじゃあないか。洋服なんかつくる気になれない」(昭和22年夏)
東北巡幸を前に、洋服の新調を提案する入江侍従に昭和天皇はこうお答えになり提案を斥けられた。

「国管の対象にならない小さいやまの労働者の厚生策はどうなっているか、やまの大小によって労務者の待遇、取扱いなどに 差別をつけるようなことのないようにせよ」(昭和22年7月12日)
福島巡幸の際に常磐炭坑をご視察される予定になっていた昭和天皇は、石炭の生産状況について担当大臣に説明をお求めになり
炭坑労働者の福利厚生に注意を払うように促された。

「石炭は大切だから、どうか増産のためにがんばってください」(昭和22年8月5日)
福島巡幸の際に常磐炭坑をご視察になった天皇陛下は出迎えた労働組合幹部の一人である三森鉄一郎氏にお声をかけられた。

「苦しいだろうが再建日本のためにお互いやろうね」(昭和22年8月7日)
岩手巡幸の際に昭和天皇は戦災者と戦死者遺族を前にして激励された。お互いというのは国民のみならず天皇ご自身も指されているお言葉である。

「皆に会うのがうれしいので疲れを覚えない。子どもたちの元気で無邪気な顔を見ると楽しい気がする。
身体の調子もかえっていいくらいだから安心してほしい」(昭和22年8月)


「殊にひどかった秋田県には是非行って状況を視察激励してやりたい」(昭和22年夏)
東北を水害が襲ったとお聞ききになると昭和天皇はこうおっしゃって東北巡幸の早期実現を側近に促された。

「石油は大切なものであるから、よく勉強して頑張ってほしい」(昭和22年8月13日)
秋田巡幸の際に昭和天皇は日本石油秋田製油所をご視察され、佐々木社長にこう述べられた。

「天候の不順や肥料の不足で難儀だろうが、食糧増産にどうかがんばってもらいたいものだね」(昭和22年8月16日)
山形巡幸の二日目に昭和天皇は荻野村開墾地をご訪問され、昭和集落の人々に励ましのお言葉をかけられた。

「宿屋というものは、人をとめるのになんと工合よくできているものか」(昭和22年8月16日)
山形巡幸の際に村尾旅館に御宿泊された昭和天皇は、物珍しそうに旅館内をご覧になりこうおっしゃた。
昭和天皇は、それまでの巡幸では知事公舎や名士の邸宅、学校などを御宿泊所とされていたので
民間旅館に御宿泊されたのは村尾旅館が初めてであった。

「斎藤、病気はどうか」(昭和22年8月16日)
山形巡幸の際に昭和天皇は、御宿泊先である村尾旅館に歌人の斉藤茂吉氏と結城哀草果氏を招き、短歌についてご歓談された。
斉藤茂吉氏は前年に三か月にわたり病臥していたので昭和天皇は斉藤茂吉氏の体調を気遣われた。

【参考文献】

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