昭和天皇の全国巡幸《お言葉》②

「一生懸命勉強してね。立派な日本人になってください」
(昭和22年10月7日)

 長野県巡幸の際に昭和天皇は二キロ余りをお歩きになり浅間山中腹の開墾地に向かわれた。
出迎えた人々の中の三人の小学生にこうお声をかけられた。

「肥料が少なくて困ろうが頑張ってネ」
(昭和22年10月9日)

 新潟巡幸の際に、北蒲原郡加治村で収穫作業をご視察され、新米をお手にとられ農夫を激励された。

「手料理ありがとう」(昭和22年10月12日)
新潟巡幸の際に御宿泊になった飯塚邸の息女に天皇陛下はおもてなしの礼を述べられた。

「皆んな明るい気持ちで元気にやってネ」(昭和22年10月12日)
長野巡幸で奉迎を受けられた際、天皇陛下は、戦災孤児をご覧になってお声をかけられた。

「この付近に戦争中むだな穴を掘ったというが、どこか」(昭和22年10月中旬)
長野巡幸の際に、天皇陛下は展望台で松代大本営跡の所在についてご質問された。

「苦しいでしょうが、どうか明るい生活を送ってね」(昭和22年10月15日)
山梨巡幸の際に昭和天皇は、甲府にある荒蓆敷の部屋をご訪問され、戦災者を励まされた。

「今度は日程の都合で行くことが出来ないのは残念である。遠い所をよく来てくれた」(昭和22年10月)
福井巡幸の際に昭和天皇は、遠い海岸地方から奉迎場にはるばるやってきた人々に謝意を示された。

「この付近にも、こんな立派なものができるのか」(昭和22年10月28日)
石川巡幸の際に昭和天皇は奥原農業共同作業所にお立ち寄りになり、試作品の南京豆を指さされお尋ねになった。

「患者の前で病歴を詳しく説明することは、以後止めにするよう、関係方面へ注意して置いて欲しい」(昭和22年10月下旬)
石川巡幸の際に昭和天皇は、患者の病歴をいちいち詳しく述べる院長に対して後にこうご訓戒された。
患者が気の毒だというお考えからである。

「なにかやりたいらしいから、顔を出したほうがよくはないか」(昭和22年10月30日)
富山県庁に御宿泊された昭和天皇は、県庁前広場に集まってくる群衆をご覧になって挨拶をするために顔を出すべきかどうか側近に諮られた。

「体が不自由でしょうが、がんばってください」(昭和22年10月30日)
 富山巡幸の際に昭和天皇は堀川小学校で出迎えた傷痍者の一人にお声をかけられた。

「そう、大変だったね。でも、よく帰ってきたね」(昭和22年11月28日)
鳥取巡幸の際に昭和天皇は、東伯郡旭村村立授産場で紙をすいている引揚者の一人に親しくお声をかけられた。

「大変でしょうね。この小さな子どもを世話するのは」(昭和22年11月28日)
鳥取巡幸の際に昭和天皇は育児院をご訪問され、保母の一人にお声をかけられた。

「子どもたちを元気で育ててね。元気でね」(昭和22年11月29日)
島根巡幸の際に安来町にお立ち寄りになった昭和天皇は戦争未亡人を町長から紹介され、こうおっしゃって労られた。

「そんなにせんでもよい」(昭和22年11月下旬)
島根巡幸の際に昭和天皇は、松江の女学校をご視察されたが、突然一人の女性記者が前方に飛び出し
天皇陛下に声をかけるという珍事があった。それを引き戻した人々に対しおっしゃったお言葉。

「子どもを亡くして気の毒である。しかし、よく働いているそうで感心である。今後も充分気をつけて」(昭和22年11月下旬)
島根巡幸の際に昭和天皇は、農作に勤しむ老夫婦を特にお召しになり労わりのお言葉を述べられた。

「この度は大事な二人の息子を失いながら、猶屈せずに食糧増産に懸命に努力する老農の姿を見、一方又
これを助ける青年男女の働きぶりを見て、まことに心うたれるものがあった。
このような涙ぐましい農民の努力に対しては深い感動を覚える。
いろいろ苦しいこともあろうが、努力を続けて貰いたい」(昭和22年11月30日)

島根巡幸の際に昭和天皇は、侍従を通じて島根巡幸のご感想を述べられた。

「心配ない。奉迎の人達を思えば、何としても日程の変更はしたくない」(昭和22年12月1日)
 山口巡幸の際にご体調を崩された昭和天皇は、周囲の反対を押し切って巡幸を続行された。

「熱烈な歓迎に嬉しく思う、広島市民の復興の努力のあとをみて満足に思う、皆の受けた災禍は同情にたえないが
この犠牲を無駄にすることなく世界の平和に貢献しなければならない」(昭和22年12月7日)

広島市民奉迎場にお立ち寄りになった昭和天皇は、五万の市民を前にこう述べられて広島市民を激励された。

「戦後はまだ日も浅く、みんな生活にこまっている。私はそれをなぐさめ、はげましにいくのが目的なんだから 私の旅行のために、むだな費えがあるようでは意味がない」(昭和24年4月9日)
九州巡幸の下見に出発する入江侍従に対して昭和天皇はこのように訓戒された。GHQも巡幸が「大名行列」となってしまうのを快く思わず
それが一つの原因で巡幸は差し止めになっている。昭和天皇はそうした事情にも配慮されたのであろう。

「おさみしい?」(昭和24年5月22日)
佐賀巡幸の際に昭和天皇は、孤児院の洗心寮をご訪問になり、両親の位牌を持った子どもに位牌についてお尋ねになり
お言葉をかけつつ頭を二度ほどなでられた。

「また来るよ」(昭和24年5月22日)
同じく洗心寮で、孤児の一人が昭和天皇のお服の端を掴んで離さず自動車の所までついてきた。
昭和天皇はその孤児に対してこうおっしゃって笑顔で別れを告げられた。

「勉強していますか」(昭和24年5月23日)
佐賀巡幸の際に藤津郡五町田村塩田橋で、昭和天皇は突然御料車から降りられ、そこに並んでいた孤児たちにお声をかけられた。

「ホウ美しい」(昭和24年5月26日)
長崎巡幸の際に、妙見岳の仁田峠の展望台で阿蘇を望んで昭和天皇は感嘆の声をもらされた。

「長崎市民諸君、本日は長崎市復興の状況を見聞し、また、市民の元気な姿に接することができてうれしく思います。 長崎市民が受けた犠牲は同情にたえないが、われわれはこれを平和日本建設の礎として世界の平和と文明のために努力し なければならないと思います」(昭和24年5月27日)
長崎巡幸の際、昭和天皇は奉迎場で多くの長崎市民に向かってお言葉を述べられた。このお言葉に対して長崎市民は満場の万歳で応えた。

「久しぶりの船で、いい気持ちだ」(昭和24年5月30日)
熊本巡幸の際、昭和天皇は十五年ぶりに外海を船で渡航され天草を巡られた。

「開拓事業は困難な仕事だが、食糧増産のためがんばってください」(昭和24年5月30日)
熊本巡幸の際、昭和天皇は天草の開拓地をご訪問になり開拓団員を励まされた。

「おお、かわいい……ありがとうね」(昭和24年6月3日)
鹿児島奉迎場で一連の歓迎を受けられた後、昭和天皇は御料車に向かわれようとした。
昭和天皇は一人の振袖姿のアメリカ人少女が捧げる花束を受け取られ何度も握手を交わされた。この少女は進駐軍夫妻の娘であった。

「裕仁です」(昭和24年6月4日)
宮崎巡幸の際に都城市の母子寮で、昭和天皇は自らお名前を告げられた。

「お母さんの言うことをよく聞いてください」(昭和24年6月6日)
宮崎巡幸の際に昭和天皇は、母子寮をご訪問になり、そこにいた子どもたちにお言葉をかけられた。

「不便でしょうが、しっかり勉強して、立派な人になって下さいね」(昭和24年6月6日)
宮崎巡幸の際に昭和天皇は盲学校にお立ち寄りになり、生徒をこう励まされた。
昭和天皇の御姿を見ることができない生徒のために、昭和天皇は御自らをお身体を乗り出され、生徒が触れることができるようにされた。

「あの歌の作詞作曲はだれだろう」(昭和24年6月8日)
大分巡幸の際に昭和天皇は、小百合愛児園にお立ち寄りになり、園児たちが歌う「天皇をお迎えする歌」を聞かれ
旅館にお帰りになってから側近にご質問された。歌詞の中でも特に「新しい国日本の子どもはみんな朗らかだ」という節がお気に召したという。

「随分辛いでしょうね。辛抱して下さいよ。御身体を大切にして下さい。そして遺児を立派に育てて下さいね」(昭和24年6月8日)
大分巡幸の際に昭和天皇は、元陸軍大臣阿南大将の未亡人綾子夫人をわざわざお召しになり労いのお言葉をかけられた。

「なるべく汽車の中での食事がないように」(昭和24年6月)
九州巡幸の際に、昭和天皇は御召列車を見送る人垣を気にされて側近に配慮するようにお求めになった。
昭和天皇がお食事中に人垣に気が付かれて左手にナプキン、右手にお箸をお持ちになったまま窓の傍まで御身を寄せられ会釈されるという一こまもあった。
「立派に出来たね。しっかり勉強して下さいね」(昭和25年3月14日)
香川巡幸の際に昭和天皇は、県立盲学校をご訪問され、点字の奉迎文を一句一句読む生徒を激励された。

「ああ日の丸を振っているね」(昭和25年3月15日)
香川巡幸の際に小豆島に渡るため昭和天皇は御召船「はやぶさ丸」に乗船され
途中ハンセン病患者を収容する国立療養所がある島を通過された。島から旗を振る患者たちを双眼鏡でご覧になった昭和天皇はこうおっしゃった。

「つらいでしょうが国家再建のためにしっかりやってください」(昭和25年3月17日)
香川巡幸の際に昭和天皇は、紡績工場をご訪問になり従業員を激励された。

「いろいろ困難もあろうが重要事業だからしっかりやって下さい。組合の健全な発展を望みます」(昭和25年3月17日)
愛媛巡幸の際に昭和天皇は、ストライキをしていた工場をご訪問になり労働組合員に対してこうおっしゃった。

「何より県民皆様の熱誠あふれる歓迎を受けて心からうれしく思ったことである。
また種々の戦争の災いを受けた気の毒な人たちや、身体の不自由な人びとがそれぞれの更生のため真剣に努力しまた それらの人に対する施設が整いつつあることはうれしいことである」(昭和25年3月)
香川巡幸を終えられた昭和天皇は、記者の「香川県を回られて特にご感激の深かったことは?」
という質問に対して鈴木行幸主務官を通じこのようにお答えになられた。

「食べないか?」(昭和25年3月19日)
四国巡幸の御休養日に昭和天皇は、生物学研究のための採集におでかけになった。
その帰り際に、地元の青年団「愛耕会」が集めた標本の中のあめふらしをご覧になり冗談をおっしゃった。

「準備をしている県民に迷惑がかかることがなければよいが」(昭和25年3月27日)
 四国巡幸の途中、ご体調を崩された昭和天皇は、侍医の勧めで一日御休養日をとられることになった。
そのせいで歓迎を準備していた県民に迷惑がかかることを昭和天皇は憂慮されたのである。
幸い昭和天皇は一日でご体調を回復され、巡幸はそのまま続行された。

「いやあれは私のために祈っているのだから」(昭和25年3月28日)
四国巡幸の途中、昭和天皇がご体調を崩されたと報じられたため、日本山妙法寺の僧侶たちが平癒祈願をしていた。
宿泊先まで太鼓の音が聞こえてきたのでそれを気遣った侍従が太鼓をやめさせようかと進言したところ昭和天皇はこうお答えになった。


参考文献

◎弊會の告知はチャンネル桜「イベント情報」ページにも掲載致しております。